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04.「中井祐樹 シークレットマッチ」

 1999年 バーリ・トゥード・ジャパン99 パンフレット掲載
 若林太郎 記名原稿

 修斗の歩みを語る上で、絶対の外せないキーマンといえば中井祐樹だ。現在の修斗隆盛は、VTJ95において体重差を乗り越えてゴルド−を下したあの瞬間からスタートしたといっても過言ではない。
 94年にスタートしたVTJは、考えもしなかったトップ・シューター達の惨敗で幕を開けた。当時、修斗こそが世界でも最も進んだ総合格闘技であると自認していた関係者にとって、その衝撃はあまりにも大きかった。
 そんな中で、唯一の希望の光となったのが、直後にホイラーの弟子、アートゥー・カチャーとバーリ・トゥード・ルールで互角に渡り合って見せた中井の存在であった。当時若手であったルミナや巽たちは、この試合を見て修斗を続けることを決めたという。
 中井がメジャーになることを目標に出場した大会が95年のVTJだった。1回戦の相手、ジェラルド・ゴルド−は極真出身の第1回UFC準優勝者。悪どい反則を使うダーティー・ファイターとしても有名な選手だった。
 果たして試合は序盤から、中井は体格で27センチ、29キロ上回るゴルド−のサミングに苦しめられることになる。更に、いまでは考えられないことだがロープを掴むことが許されていたルールが採用されていたこともあって、2ラウンドには足関節を狙って下になった中井の顔面を、ロープを掴んだゴルド−が踏み付け、拳を打ち下ろすという最悪の展開に。
 「でもタオルは投げないつもりでした。」セコンドに付いていた朝日は語る。「見てるほうも辛かったですよ。音が凄いんですよ。どんどん腫れてくるし。だけど頑張ってるのは中井なんですから、それを止める事はできないです。ただ、どうやって勝ちにいけばいいんだろうっていうのはありました。インターバルの間は、ヤジに惑わされないように、絶対諦めるな、焦るなって言ってました。とにかく客のヤジが凄かったですからね。それを聞いて安易に行くとヤバイですから。このまま粘れば、必ず相手が先に諦めるだろうって。」
 4ラウンド、フロントチョークに来たゴルド−に対し、頭を抜いた中井は再び下からのヒールホールド。一瞬の切り返しにロープを掴み損ねたゴルド−が倒れる。がっちり足がロックされると、中井の粘りとは対照的なほどゴルド−はあっさりタップ。千載一遇のチャンスをモノにした中井の勝利に、場内に溢れていたブーイングは大きなどよめきに変わった。
 「ザマアミロ! これで歴史が変わるぞって思ってましたよ。中井は凄いヤツですよ。本当に命がけでやって、自分の足で追いついたんだから。」試合後、感動の余り号泣しながら中井に肩を貸して花道を引き上げてきた朝日は、勝利の瞬間をそう回想してくれた。
 続く2回戦では更に体格差のあるクレイグ・ピットマンとの試合を腕十字で突破。決勝ではヒクソンのスリーパーに敗れたものの、満身創痍となりながら準優勝を果たした中井の活躍は、マッハを初めとする多くの選手に修斗を始めさせるモチベーションとなった。
 偉業をなしとげた中井が、自らの異変に気付いたのは翌日のことだった。右眼が見えない。腫れが視界を塞いでいたと思っていた右眼は、腫れが引いても視力をとりもどすことは無かった。目の動脈が圧迫されて詰まったことによる失明であった。
 病院へ付き添った朝日は、言葉を失った。「どうすりゃいいんだろうって思いました。ケガさえなければ、中井は絶対的なエースですよ。それなのに…」
 シューターとしての道を閉ざされた中井は周囲の勧めもあって、95年12月にフロント入り。裏方としての道を選び、練習する生活からは一歩距離をおく。しかしディレクターを務めた翌年7月のVTJ96のメインで、朝日がホイラーに完封されての1本負け。
 マスコミに日本最弱と評されたこの大会を見て中井は、「自分が柔術で柔術家に勝つ。それがすべてに繋がるはずだ。」という思いを抱く。1年4ヶ月のブランクを経て、中井は現役復帰を決意した。
 96年10月4日、プロ修斗戦後楽園大会で行なわれたイーゲン井上との対戦で柔術家として本格復帰を果たした中井は、以後海外の柔術トーナメントへのチャレンジを開始する。
 同年10月26日、手始めに出場したホノルル・グレイシー柔術オープントーナメントの青帯レーヴィ級(72.9kg以下)で優勝。97年3月にホノルルで行なわれたパンアメリカン選手権からは紫帯に昇格。この時はペナ級(66.9kg以下)で優勝し、続いて6月にロスで行なわれたジョー・モレイラ杯も連覇。7月の世界選手権(ムンディアル)こそ準々決勝で破れたものの、10月のブラジレイロ(全ブラジル選手権)では紫帯レーヴィ級で3位入賞を果たした。この年の暮れ、念願であった自らの道場・パレストラを開設。指導者としての活動もスタートさせている。
 98年2月のパンアメリカン選手権からは茶帯に昇格、いきなりペナ級で優勝してみせた。道場運営と国内の柔術普及活動で多忙を極めたこともあり、この年の世界選手権は欠場。茶帯ペナ級に出場したブラジレイロと99年1月のパンアメリカンでは、2回戦負けを喫したものの、試合内容と実力が連盟に認められ、7月の世界選手権からは遂に日本人としては初めて黒帯となった。そしてついに、今年10月に行なわれたブラジレイロでは黒帯ペナ級で3位に入賞。その実力が本場ブラジルでもトップレベルにあることを証明した。
 中井は言う。「世界への手ごたえですか。近付いていると思いますよ。焦るつもりはありませんけど。今回は1階級上の世界王者に、いわばノンタイトル戦で挑むつもりで、素晴らしいチャンスを貰った分頑張ります。」
 朝日と同じくセコンドを務めた坂本一弘は、今でもVTJ95のことをあそこまでやらせてよかったんだろうかと葛藤することがあるという。「中井は VTJ95のときに、修斗を背負って闘ったわけではないっていってましたけど、そう言ってても、結局修斗のためだったんです。そういう気持ちは絶対あったはずです。言わないだけなんですよ。」そういう思いが、坂本を今回の試合の実現にこだわらせ、秘密裏に準備を進めさせたのだろう。
 「今回のチャンスというのは、中井が当然受け取れるべきものなんですよ。修斗を掘り下げれば、かならず中井にぶつかるんですから。僕が修斗をプロデュースしていく上でも、これだけはやらなきゃいけない物なんです。修斗をやりたかった人間が、基礎だけ作って、自分は半ばで辞めざるをえなかったわけじゃないですか。その分は、絶対中井に返してやらなきゃいけないんですよ。今の修斗しか知らない若い子達にも、いつでも刀を抜けるような中井祐樹という男の凄さを知って欲しいんですよ。」
 「まさにあの時造りたかった状況に、今の修斗はあると思います。その闘いの輪に入ることは正直嬉しいです。タイトルは返上したし、プロのライセンスもないけど、僕は修斗を辞めたつもりはありません。僕の寝技は、いろんなエッセンスをいつも取り入れるようにして造ってきたものです。だから柔術のルールで柔術の枠の中で闘っていても、意識は修斗なんです。僕の修斗は、まだ続いています。」
 中井祐樹が、4年の時を経てVTJに帰ってきた。おかえりなさい、中井さん。ここはあなたが守ったリングです。

■解説 / 若林太郎
 バリジャパ99のシークレットマッチとして実現した中井 vs ビトー・シャオリン・ヒベイロの柔術マッチのためにパンフレット用に書いたコラムです。
 とにかく当日の驚きを最大限にするために、この時は徹底的な秘密主義が取られました。このコラムもパンフが事前に読まれること防止するため、別紙に印刷され、当日パンフを買った人にのみ手渡されるという徹底ぶり。
 ネット時代にあって、秘密主義を貫くというのはそうとう難しいことでした。「パレ東の会員にも秘密にしてほしい」という坂本氏の頼みもあって、とにかく喋れない辛さを味わった日々でした。
 当時はシャオリンの強さは、まだ柔術マニアのみしか知りませんでした。しかもペナ級の中井さんより1階級重いレーヴィ級。試合は10ポイントを奪われた中井さんが判定負けとなるのですが、私は久々の大舞台に入場する中井さんを見た段階でウルウル状態で、涙を堪えるのが大変でした。この時の入場曲は、なぜか『ビートルズ・アンソロジー』に収録されている「ヘルター・スケルター」のバージョン違いが採用されていました。(おそらくは担当者の勘違いでしょう。)あれがオリジナルの「ヘルター・スケルター」だったら、やられてたでしょう。
 なお大会後には、某鬼軍曹を初めとする会員の方々から「なぜ教えなかったんですか!」と避難轟々の嵐でした。プロ柔術興行なんて想像できないころの話ですから、無理もないかもしれません。


05.「番頭's EYE 札幌編」

 1998年 パレストラ・ニュース3号 掲載予定稿
 俵谷実 記名原稿

 初めまして、パレストラ札幌の俵谷です。パレストラニュースにコラムを書かせていただけるとのことで、とても張り切っております。第1回目、私が何者であるかについてと、パレストラ札幌設立の経緯についてお話したいと思います。
 私、俵谷は、昨年11月まで芦原会館札幌支部で責任者をつとめておりました。芦原会館とは極真会館から派生したフルコンタクトカラテの一流派です。サバキという独自の技術体系をもっており、実戦(早い話が喧嘩)を意識しているために表向きは試合はしない(裏ではこっそりやっている)のが特色です。私はそこで14年間空手を学び、7年前からは責任者として会員を指導してきました。
 空手一筋に修行をしてきた私が空手を捨てるきっかけとなったのは三年前、縁あってハワイのマウイ島にあるホムロ・グレイシーのアカデミーで指導を受けたことです。それ以来柔術にはまってしまった私は、空手と平行してこっそり柔術の練習をしてきたのですが、自己満足ではなく本格的に修行したいという欲求が日々強くなっていました。そんな折り中井先生が独立し、道場を設立するという朗報が! これしかないと思いました。天の巡り合わせか、空手の教え子の一人に北大OBで中井先生の後輩に当たる者がおり、彼が私と先生を結びつけてくれたのです。私は芦原会館に別れを告げ、中井先生のもとで一から修行しようと決心しました。
 11月に試合で東京に行った折り、初めて中井先生にお会いし、札幌道場設立を快諾していただき、2月からスタートし、3月にセミナーを行い、5月からは常設道場に移転することもできました。スタッフも、山下さんをはじめ優秀なメンバーが集まり何かと助けてもらっています。
 現在までこれほど順調にこれたのは、柔術が人々を引きつける魅力をもっているということと、何より中井祐樹というビックネームのおかげです。11月にはいよいよSAPPORO B.J.J. JAMを開催し、パレストラも全道に展開していきます。私自身修行中の身であり、更なる努力をしていきますので、これからもよろしくおねがいします。

■解説 / 若林太郎
 98年頃にパレストラ内だけで出していた『PARAESTRA NEWS』の3号用にと、パレストラ札幌代表の俵谷さんに書いてもらったコラムです。
 当初、パレストラは全国展開する予定など全くなく、名称もパレストラ東京ではなく、パレストラだけでした。
 中井さんから「札幌で支部を開きたいという人がいるので、一緒に会ってもらえませんか」と誘われて俵谷さんに初めて会ったのは、コラムにもあるとおり97年の11月。新宿西口の喫茶滝沢でのこと。パレストラ東京のオープンが12月1日でしたから、まさに直前のタイミングでした。
 意気投合した我々は、その場で「パレストラ東京」「パレストラ札幌」として活動することを決めました。この瞬間こそパレストラ・ネットワーク構想誕生の瞬間でありました。

2003/8/1 UP

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